元ベトナム農村住みの独り言

ベトナム関連の雑記とニュースを少々。あと野生動物生態学などのベトナム語記事の翻訳

グエン王朝最後の皇帝の母君に仕えた女性の記事

阮王朝最後の皇帝バオ・ダイの母君、慈宮皇太后(Từ Cung Hoàng thái hậu)に女官として仕えていた女性の記事

正直わからない箇所多すぎて…誰か補完で翻訳してもらえれば助かります

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彼女の名前はNguyễn Thị Dinhさん 2014年1月の時点で91歳

5代に渡るグエン朝の王に線香をあげ続ける女官の貧しく厳しい半生

すべての私の人生を彼女は誇りを持って生きてきた。そしてグエン王朝の皇帝たちの浮き沈みと共に歩んできた

郡公であるƯng Quyếnの孫にあたるDinhさん。以下ジンさんでいきます。

祖父のQuyếnさんは、Kiến Phúc, Hàm NghiやĐồng Khánhなどグエン王朝の王の弟にあたる。ジンさんはいつも自分の血に流れる王族の血を誇りに思っていました。

Kiến Phúc – Wikipedia tiếng Việt
Hàm Nghi – Wikipedia tiếng Việt
Đồng Khánh – Wikipedia tiếng Việt

高貴な家庭に生まれ、父親はThuận Anの人で、母親はフエの高貴な血筋だった。7歳でフエ市にあるĐồng Khánh学校に入学 (trường Hai Bà Trưng, TP. Huế) 1920年、10歳になると宮廷入りしてKhai Dinhの妻Từ Cung(慈宮皇太后)やThánh Cungなどに仕えた。宮廷での彼女の仕事は儀礼や王宮で行われる重要な事案の前に王族のものたちへの化粧だった。他には王位継承者への本の読み聞かせなどをした。「彼らは特に三国志水滸伝などが好きだった。また金雲翹やホーチミンの詩なども読んでほしいと頼まれ何度も読んだ。」金雲翹=19世紀前半にベトナム阮朝)の文人グエン・ズー(阮攸)が中国の小説『金雲翹伝』を翻案し、チュノムで記した長編叙事詩。チュノム文学の最高峰と考えられ、ベトナムの国民文学的作品とみなされているとウィキ引用

消すことができない記憶

宮廷で長く働いていたので彼女は多くの重要な事案を見てきた。時間が経ち過ぎたが今でも鮮明に残っているのは德聖宮の葬式(Đồng Khánh Đế の正室。漢字は同慶帝)でありその葬儀は一ヶ月以上行われた。王族のしきたりにより毎日行われる式典の儀。白い布を頭にまいたひとひとひと。提供される豪華な食事。

德聖宮が亡くなったあとジンさんはTừ Cung后 (慈宮皇太后)に仕えることになった。啓定帝 (Khải Định)王の妻である

当時、女官の仕事は次のようなもの提供することだった。

食べる、入浴、衣類、洗濯、様々な世話、女王の睡眠の世話など。王の中でバオダイだけは妻は一人だけで他の王は正室の他に側室も多くそのため仕事も多岐に渡った。女官たちはこの女性たちのために昼夜問わず働かされた。

ジンさんはきつかったと述べている。なぜなら彼女はThánh Cung (德聖宮)に好かれていたから。

何百人と言う女官がいたがThánh Cung (德聖宮)はジンさん以外がケーキを焼くのを嫌った。また目の化粧も彼女にさせた。ジンさんは毎月朝廷から給料をもらっていたが皇后たちからも褒賞を得ていた (Thời đó có hàng trăm cung nữ phục vụ, nhưng Thánh Cung không ưa mà thường sai bà Dinh làm bánh)

正直訳に自信ない。上記の訳で合ってるとは思うけど。ベトナム中部地方ベトナム語だから訳しにくいと信じたい

もう一つ忘れられない記憶として王バオダイの封権制の終わりを告げる声明

1945年、バオダイが退位する数日前。数人の人がハノイから来てバオダイに一枚の紙を手渡した。それを見終わったあとしばし考えそして彼は頷いた。宮廷における何かとても大事なことへの同意であろうと思われた

全てのことは普段通り行われた。大ホールにみんな招集された。1945年8月25日王バオダイは午門の前に正装で立ち彼ははっきりした声で封建制の終焉及び民主共和国への支持を宣言した。

大きい広場にいた何千人もの人々は一斉に叫んで互いに顔を見合わせたあとに儀礼をおこなった(khấn khởi)

私もその時はひどく緊張していた。バオダイの声明を聞いたあと、王と王妃はAn Định宮へと戻って行った。それから数日でバオダイはホーチミンに招かれ北部へ行き顧問をすることになった。その時からdinhさんはphủ Kiến Thái Vươngへと移り今に至る(元王族の別邸で今の家)

8月の革命のあと、彼女はTừ Cung (慈宮皇太后)が引っ越すのを手伝い、この皇太后の終生の世話をした

「良い人でしたが時代の情勢のせいでした」Từ Cung后 (慈宮皇太后)がなくなった後、Từ Cungの子供たちはみな散り散りバラバラになっていたので彼女が供養の線香を。その後ジンさんは家に長男と戻り、同慶帝 Đồng Khánh, 建福帝 Kiến Phúc,咸宜帝 Hàm Nghiに啓定帝 Khải Địnhと4人の王へ焼香あげることにした。

そして1997年。そこへバオダイのものも加わることになる。

阮朝終焉以降は体調を崩し仕事もままならず生活はかなり苦しかった。そのような時でも亡くなった歴代の王様へ線香あげることを欠かさず時にはそのために借金をすることもあったとか。

ということで訳おしまいです。読みにくくてごめんなさい。

ちなみに下のタイトルのテレビ番組。

『女優・水川あさみが、ベトナム国道一号線1800キロを、路線バスに乗り継いでたどる旅』

水川あさみさんがベトナム一号線をゆくという感じの旅番組でもこの女性に会っているので気になる人は見てみてください。1920年で10歳で2014年で91歳って合わないよな。水川さんの番組では1920年生まれって言ってたからこの記事の数字が間違いだね。91歳も合ってないけど

ちなみに水川あさみさんのウエストは67センチ。番組内でベトナム人のおっさんがアオザイ作るため彼女のウエスト測って『sáu mười bảy』と口に出したが和訳はされず…これ重要ですからみんなメモね

というかむちゃ翻訳しにくい文章で頭痛い。これ中部の方言ですかね?それか自分のベトナム語はまだまだか…TTウィキではバオダイには側室いっぱいいるのだが妻は一人とかつじつま合わないことがたくさんあって混乱しまくり

http://kieu.com/cuoi-doi-ngheo-kho-cua-cung-nu-ke-tu-nhang-khoi-5-vi-vua-trieu-nguyen.html



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